(5)ところで、出崎の修了研究として大学院に提出したはずのドキュメンタリー・ビデオはどのようなものになったのか、5名のうちの誰一人として知らされた者はおりません。そうするうちに、出崎は、藤岡を除く4名に対し、ドキュメンタリー映画が完成し平成30年10月に釜山の国際映画祭にて上映されることになったと通知してきました。映画のタイトルは「主戦場」とのことで、卒業制作のテーマとして5名に告げていた「歴史議論の国際化」とは全く異なるものでした。そして、その後平成31年3月と4月に開催された本件映画の試写会で明らかになったことは、この映画の実態が学術研究とはおよそかけ離れた韓国の元慰安婦の確証のない「証言」なるものを真実と前提して、日本政府及び日本人を糾弾する運動のための一方的でグロテスクなプロパガンダ映画となっていることでした。
本件映画は、慰安婦問題を取り扱っているのですが、終幕に至るや、やおら、安倍政権の政策全般の批判に転ずるのです。時の政権を批判することは、もとより、国民の表現の自由に属するでしょう。しかし、問題は、そういうことではなく、本件映画の製作が学術研究目的にあるのではなく、専ら自らの政治的メッセージを観客に伝えることを目的としていることを端的に示していることです。
それだけではありません。本件映画は、始まるや否や、藤岡、衆議院議員杉田水脈、ケント・ギルバート、藤木俊一、トニー・マラーノの5名の顔写真を並べたうえ同人らを「歴史修正主義者」として紹介しているのです。 いうまでもなく「歴史修正主義者」(Revisionist)とは、ナチスのホロコーストを否定する道徳心の欠けた人間として社会的に抹殺されて当然と見なされているような存在です。しかも、本件映画は、REVISIONISTというレッテル貼りのための文字を画面いっぱいに大映しして、上記5名を断罪し、先ずこれを観客の脳裏に刷り込むことを意図してつくられています。
本件映画の「公式プログラム」には、もっともらしく、「対立する主張の数々を小気味よく反証させ合いながら、精緻かつスタイリッシュに一本のドキュメンタリーに凝縮していく」などと書かれていますが、その実態は5名が何かを話すや、これに反対する論者らが寄ってたかって5名の話を叩くという構成になっています。しかし、5名の側にはこれに対する反論・「反証」の機会が与えられていないのです。
「反証させ合い」など全くしておりません。出崎は撮影時の「公正性かつ中立性を守りながら、今回ドキュメンタリーを作成」するとの約定を完全に裏切っています。かくして、本件映画は、一方的なプロパガンダ映画になっているのです。
取材対象者の5名は、それぞれ根拠をもって体系的に話しているにもかかわらず、前後の脈絡を無視し、発言者の一部の言葉尻を恣意的にとらえ、したがって、結果的に発言者の真意を歪めてインタビュー対象者を人格的に貶める巧妙な手口が駆使されています。先のレッテル貼りと併せて、本件映画の真の狙いは、「慰安婦=性奴隷」否定派の論者の人格を攻撃し侮辱することにあったと断定できます。ちなみに、慰安婦性奴隷否定論は日本政府の見解でもあります。
出崎は、山本優美子宛に「大学院生として、私には、インタビューさせて頂く方々を、尊敬と公平さをもって紹介する倫理的義務があります」などと書いていましたが、実際に行ったことはそれとは正反対のことでした。
5名のインタビュー映像がこういうかたちで用いられることを少しでも予想していたなら、この5名は絶対に出崎のインタビューの申し入れに応じることはありませんでした。したがって、出崎の5名に対するインタビューの趣旨説明は、必然的に欺罔的にならざるを得ず、上記のような多くの詐言を弄することになったのです。このようなやり方が学術研究の名でなされることが許されるはずがありません。このことは政治思想の左右の対立・論争の問題などではなく、したがって、貴学が局外中立に立てる問題でもありません。
(6)かくして、5名は共同声明にサインした上で、5月30日、日本記者クラブにおいて開かれた記者会見の場でこれを発表し、本件映画の上映中止を求めました。すると、出崎と本件映画の配給会社東風は、これに対抗して、6月3日、記者会見を開き、映画の差し止め要求を拒否しました。そこで、ケントら5名は、やむなく、6月19日、出崎と東風を被告として、本件映画の上映中止と損害賠償を求めて東京地方裁判所に提訴するに至りました(令和元年(ワ)第16040号映画上映禁止及び損害賠償請求事件)。